活動報告

2012年03月04日(日) 世界遺産平等院

妻が外出したため、子供二人を連れて宇治平等院へ。
あいにくの空模様でしたが、雨の中の鳳凰堂も美しかったです(写真)。
さすが世界遺産!

鳳凰堂の裏手にある最勝院の庭に源三位頼政の墓所があります(写真中)。
源頼政は平家全盛の時代に平清盛に信頼を得、源氏としては初めて従三位を授かった人です。
頼政は弓の名人にして歌の名手。平家物語の「鵺退治」の話は有名です。

数代前には源頼光がおり、こちらも「酒呑童子」の話で有名ですね。
ついでに言うと、頼光の数代前が源満仲という人で、今ではJR川西池田駅のロータリーに銅像が立っていたり、「みつなかホール」というホールの名前になっていたりします。要するに源満仲~頼光~頼政は宝塚も含めた摂津地方の支配者「摂津源氏」の棟梁だったのです。

頼政は晩年、平家の専横に耐えかね、以仁王を担いで全国の源氏に平家打倒の令旨を発令します。
しかし、中央に居たため、全国の源氏が蜂起する前に露見。頼政は平知盛の大軍に追い詰められ、奮戦むなしく宇治平等院で自刃しました。今でも自刃の場所が「扇の芝」として残っています(写真右)。

頼政は、家臣の渡辺長七唱(となう)に首を討てと命じますが、長七唱はどうしても頼政に刃を向けることができません。頼政は西に向かって高らかに念仏を十遍唱え、辞世の句を詠むと、軍扇を開いて自刃しました(平家物語)。


辞世 埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなるはてぞ 悲しかりける


その後、頼政の令旨を受け取った伊豆の源頼朝が挙兵して、怒涛の源平合戦に突入するのはご存知の通りです。

頼政の最期は大変有名なお話で、一昔前ならだれもが知っていたそうです。
摂津源氏は宝塚も領地としており、市内には摂津源氏ゆかりの社寺が点在しています。
このような歴史ロマンも宝塚観光の視点の一つに加えればどうでしょうか。

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