自衛隊第三師団創立56周年式典、その他

【5月14日(日)】 第3師団創立56周年・千僧駐屯地創設66周年記念行事(伊丹市千僧)に参加いたしました。宝塚市山本野里には自衛隊の宿舎があって、そこから千僧駐屯地に通勤している隊員が多いのです。自衛隊員の皆様の日頃のお役目に感謝いたします。

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午後からは「たからづか能」に参加。木曽義仲の最期を巴(ともえ)御前の亡霊が語る修羅能「巴」を鑑賞いたしました。

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【木曽義仲の最期と巴御前】
巴御前は27歳。「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と記される義仲の側室で、「春風」という名の荒馬を乗りこなし、華麗な鎧を着て、大弓と大太刀を操る女武者だった。
寿永三年(1184年)、木曽義仲は源頼朝の命を受けた源義経と戦って琵琶湖のほとり・粟津で敗死。
木曽義仲勢は300騎ほど。6000騎の一条次郎勢の中に突進して後ろに出たところ、義仲の軍勢は50騎ほどになっていた。
さらに突破していくと、土肥の次郎実平の軍勢2000騎が守っている。そこも突破してくうちに、しまいには主従5騎になってしまったが、まだ巴は討たれていなかった。
義仲は巴に言う。「巴、早く逃げよ」「いやです。最後までお供いたします」
巴は頑としてきかない。何度も説得を試み、ついには「最期の戦に女を連れていたと世の笑い者にしたいのか!」と 武士の名誉を語られて、彼女は言葉が出ない。
「では、木曽殿にお見せする最後の戦・・・はなむけに名のある武将をひとり討ち取りましょう。」
そこに、武蔵の国で力持ちで有名な恩田八郎師重が30騎余りの兵を率いて現れた。
巴はその中に突入して、恩田八郎を馬から引きずり下ろし、首をねじ切って投げ捨て、そのまま東国へ落ち延びていった。
やがて、手塚太郎が討ち死にし、叔父の手塚別当は敗走し、いつしか義仲と股肱の臣である今井四郎(兼平)の二人になった。
兼平は「自分が敵を防ぐので、向こうに見える粟津の松原に入って自害したまえ」と義仲に言う。
「この義仲は、都で死ぬ機会があったがここまで逃げてきたのは、お前と一緒に死のうと思ったからだ。別々の場所で討たれるよりは、同じ場所で討ち死にしよう。」
と言って、同じ方向に駆けようとしたため、兼平は馬から飛び降り、義仲の馬をつかんで言った。
「武士というものは、日ごろどんなに高名があっても、死に方を間違えると永遠に不名誉がつきまといます。名もなき人に討たれて『日のもとに名高い木曽義仲を俺が打ち取ったぞ!』などと言われたら、無念でなりません。松原の中にお入りください。」
と言ったので、義仲は「さらば」と言って松原へ駆けていった。
ところが、松原に向かう馬上で兼平のことが気になり振り向いた瞬間、額に三浦の石田次郎為久が放った矢が命中し、義仲の首級があげられた。
義仲が討たれたことを知った兼平は、「こうなっては、誰をかばって戦う必要があるだろうか。東国の武士たち、見よ!日本一のつわものが自害する手本だ!」
と言って、刀の先を口にふくんで、馬から逆さまに飛び落ち、刀で首を貫いて滅した。
これが粟津の戦いにおける木曽義仲の最期であった。